【映画紹介】 ゲッベルスと私 第二次世界大戦中、1942年から終戦までの3年間、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書として働き、近代における最も冷酷な戦争犯罪者のそばにいた人物

本日の映画紹介は、『ゲッベルスと私』です。

彼女(ブルンヒルデ・ポムゼル)は、第二次世界大戦中、1942年から終戦までの3年間、ナチスの宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルスの秘書として働き、近代における最も冷酷な戦争犯罪者のそばにいた人物です。

彼女が自身の半生とナチス時代を証言した映画『ゲッベルスと私』が、2018年6月16日より岩波ホールで公開される。 早く観たいです。

歴史に証言を残した彼女は、映画の完成を見届けるように息を引き取った。享年106歳。一人で最後を迎えたのは、ミュンヘンの老人ホームだった。彼女は出来上がった「自分」の作品を見て、満足そうな表情を浮かべていたという。

https://www.sunny-film.com/a-german-life

この様な映画をなぜ、取り上げるのかと云えば、人間は、いくら善人ずらをしていても、善と悪について語ろうと、自分の命が係れば、何でもする、せざるを得なくなるという事です。

体制に逆らって死んでゆくのが「善」なのか、従って生き抜くことが「悪」なのか。。。

1.”悪の凡庸さ”

ドイツ出身の哲学者、思想家である「ハンナ・アーレント」は『エルサレムのアイヒマン』で戦後、アルゼンチンに逃れていた、ナチス政権下でホロコーストを指揮した「アイヒマン」をとっ捕まえて、裁判を行うが、「凶悪で残忍な人間に違いない」と思っていたが、そうでは無かったと言ってしまい、アメリカ社会から猛烈な批判を浴びました。 しかし、この批判は何を物語っているのか?

アイヒマンは、上役の「命令」に従っただけでなく、自分は「法」にも従ったのだと主張したのです。「ユダヤ人が憎かったのではない」と。。。

人間は、どんなに「善人」面をしても、思考を停止すると「悪」に染まることがあるという事です。 「スタンフォード監獄実験」、「ミルグラム実験」でも明らかです。

人は、条件が整えば、誰でもアイヒマンになり得るという事です。

ホロコーストについて「最後まで何も知らなかった」と語り、「私に罪はない」と断言した。

そして彼女は言う。罪があったとするならば、「私」ではなく「ドイツ国民」である。ナチスに政権を取らせたのは、ドイツ国民全員であり、「私」もその1人だったと。

ドイツ人に対して、一番言ってはいけない言葉で、賢いドイツ人なら、だれでもそう考える言葉の1つで、彼女は、ナチスに政権を取らせたのは、ドイツ国民全員であり、「私」もその1人だったと。

この辺の事情は、第一次世界大戦に敗けて、第二次世界大戦に突入していった歴史を調べれば、分かるでしょう。

2.何が言いたいかと云えば、

「無知は罪悪なり」という言葉は、いつの時代も変わらないという事です。

思考停止した頭で、生活していると、気が付くと、だれも止められない状態になっていて、人類は、いつでも戦争を始めてしまうのです。

テレビやネットの記事を観て、世の中、知っているつもりでいる。

自分の半径5m以内の事しか気を配れない、1年に1冊の書籍も読まない「バカ共が多勢に無勢」の世の中では、善とか悪ではなく、常に、危険がはらんでいます。

なぜ、危険がはらんでいるかと云えば、世の中「バカ共が多勢に無勢」を占めているからです。悪い奴が危ないのではなく、悪い奴がのさばるのを「無知」が助長してしまうので危ないのです。

日本も、敗戦記念日が、近くなると、「戦争の悲惨さ」を語り継ごうとしますが、本当は違うでしょうと言いたい。

愚かな「大衆」が、なぜ、戦争に巻き込まれるかを「語り継ぐ」べきなのです。

戦争の悲惨さを語り継ぐのではなく、戦争を起こさないよう、世の中の多勢に無勢のバカ共を少しでも減らす努力です。それができないから、同じことを繰り返すのですが、「無知は罪悪なり」という言葉の重みが無いのでしょう。

いざ戦争になれば、アイヒマン、ブルンヒルデ・ポムゼルと同じことする羽目になってしまうのです。


Sponsored Links




関連記事
【書籍紹介】「悪と全体主義」―ハンナ・アーレントから考える 仲正 昌樹(著)
【書籍紹介】 暴力の人類史  スティーブン・ピンカー (著)
【書籍紹介】 歴史と戦争 半藤一利 著

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください