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【映画紹介】 「アルキメデスの大戦」と戦争と平和、豊かさの格差

2019年8月3日(土)、
今夜も余りにも暑いので、久しぶりに札幌駅で邦画を観てきました。さすが北海道、昼間あれだけ暑かったのですが、家路につく頃には、少し涼しい風が吹いていて、気持ちの良い夜でした。 札幌は、お盆が過ぎれば、もう秋です。 もう少しの夏です。

札幌駅のシネマフロンティアで、上映開始の時間もちょうどいい時間でしたので、「アルキメデスの大戦」にしました。

いきなり、上映開始から、戦艦「大和」の撃沈シーンから始まります。

分かりやすく言えば、もう、初めから日本軍の体たらく、馬鹿さ加減、無能さから始まります。

日露戦争以来、調子こいた日本の軍部のサイコパスどもは、第二次世界大戦で、米国に勝てるはずのない戦いを強いて、大勢の国民の命を奪ってしまいました。

確かに、個別には、優秀な人間たちなんでしょうが、優秀な人間たちが、集まっていても、この体たらく、無能ぶりは、何も変わらないのです。 階級上層部のモンスター状態の人間をのさばらせてしまった軍部の軍人ににも、全員に取らせるべきなのです。

戦後の「東京裁判」は、戦勝国のエゴだ! と言われていますが、空気を呼んで、兵隊を戦地送ったりさせていた軍人たちは、全員、絞首刑です。 少なくとも上級軍人たちは、「空気を読んだ結果の責任も取らせるべきなのです」。

そうしないと空気を読んで、戦争に向かわせた、責任を取らせないと、また同じことが起こるのです。

そして、一番大切で、不可能なこと。

愚かな「大衆」が、なぜ、戦争に巻き込まれるかを「語り継ぐ」べきなのです。

悲惨さを語り継ぐ前にです。

 

1.戦争の件で語り継がなければいけないこと

もう少しすると、敗戦(終戦)記念日やら、大戦時の原爆投下等の悲惨な出来事の報道が、始まるのですが、いつも思うが、悲惨な体験を語り継ごうとするが、意味をなしていない。

戦争がどんなに悲惨か、毎年、終戦(敗戦)記念日の近くになると、忘れないように、語り継ぐために、放映されますが、内容が、トンチンカンなのです。

第二次大戦が終了してから、大きな戦争は起きていませんが、歴史の中で、同じ過ちを何度も繰り返すのは、「バケモノの様な凡人」に支配されしまった人間(凡人)達の、その時々の自分の身を守る行為ですので、何度も、何度も、同じ過ちを繰り返しています。

 

1)語り継ぐべきは、人間の「愚かさ」です。

いつも、思うのですが、よく、戦争の悲惨さを語り継ぐ必要があると。。。。。

本当は、「戦争の悲惨さを語り継ぐ」のではなく、「人間の、人類の、生き残るための本能を発動すると、同じことを繰り返す」という、人間の「愚かさ」をちゃんと教えることが必要です。 

ここが、教育では、全く、語られていないのです。 人間の「愚かさ」を。

群集の特色を、かく鋭く定義している—衝動的で、動揺しやすく、興奮しやすく、暗示を受けやすく、物事を軽々しく信じる、と。そして群集の感情は拡張的で単純であり、偏狭さと保守的傾向を持っている。

為政者が、これを上手く利用すると、戦争なんて簡単に起こせてしまう事を認識すべきですが、2000年経っても、同じです。 全然変わりません。

現代の「SNS」が、それを証明しているでしょう。 上手く利用すべきツールなのですが、どうしようもない愚かさは、貧困よりも、世界中に蔓延していますので、何回経験しても、「悪夢」として終わって、また繰り返すのです。

そう、人間の「不都合な真実」を共有せずに、反省しようとしても、偽善的でしかない。

だから、どうしなければならないかを考えるべきなのですが、「はかなく弱い生き物」としてしか生きられないのです。 それが、善か悪かなんて関係なくなるのです。

「エルサレムのアイヒマン」の著者「ハンナ・アーレント」は、「人間はあらゆる状況においても善悪を判断する能力を持っていなければならない」と言っていますが、これを実行できる人間が何人いるかでしょう。

バケモノの様な「凡人」を早めに見つけて抹殺してしまうには、弱い「凡人」たちが、潰されないように、一致団結して仲間を増やし知恵を集めて始末するしか方法がない様な気がしますが、これができない為に、歴史が繰り返されます。

 

2)「無知は罪悪なり」という言葉は、いつの時代も変わらないのだが、反知性が、蔓延るわけ。

思考停止した頭で、生活していると、気が付くと、だれも止められない状態になっていて、人類は、いつでも戦争を始めてしまうのです。

テレビやネットの記事を観て、世の中、知っているつもりでいる。

自分の半径5m以内の事しか気を配れない、1年に1冊の書籍も読まない「バカ共が多勢に無勢」の世の中では、善とか悪ではなく、常に、危険がはらんでいます。

なぜ、危険がはらんでいるかと云えば、世の中「バカ共が多勢に無勢」を占めているからです。悪い奴が危ないのではなく、悪い奴がのさばるのを「無知」が助長してしまうので危ないのです。

日本も、敗戦記念日が、近くなると、「戦争の悲惨さ」を語り継ごうとしますが、本当は違うでしょうと言いたい。

愚かな「大衆」が、なぜ、戦争に巻き込まれるかを「語り継ぐ」べきなのです。

戦争の悲惨さを語り継ぐのではなく、戦争を起こさないよう、世の中の多勢に無勢のバカ共を少しでも減らす努力です。それができないから、同じことを繰り返すのですが、「無知は罪悪なり」という言葉の重みが無いのでしょう。

 

3)「ポピュリズム」と「反知性主義」

社会の閉塞感が進むと、向かってしまう方向

そうです、持てるものと、持てない者の格差が広がりすぎると、持てない者が世の中を不安定にしようとする意識が生まれ、「既得権」を持っている者たちを脅かす存在になります。

ポピュリズムは「知識社会への抵抗運動」です。

「知識社会」とは、定義上、高い知能を持つ者が大きな優位性を持つ社会です。

知識社会における「経済格差」とは、「知能の格差」の別の名前でしかありません。

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このように、現代社会では、産業革命以降、それ以前と比較して、飛躍的に豊かな生活を送れるようになった人類の数が増えましたが、途上国ではなく、発展した国の中でも、この知識社会に、付いてこれない人間たちで溢れかえっています。

 

我々人類が生き残ったのは、「虚構」を信じることができたからだと言われています。しかし、「虚構」故に、何度も裏切られ、傷つき、それでも生き残って来たが、この先はどうなるのか?

■サピエンス全史

 

■ホモ・デウス

ユヴァル・ノア・ハラリ (著)の『ホモ・デウス』に一貫して流れる思想は、「自己や自由意志は虚構であり、生物はアルゴリズムに過ぎない」という考えですが、もし人間に自由意志がないのならば、人間が人間である条件とは何か。わたしたちは機械と同じなのだろうか。


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